『タブラと姿勢』①目的が定まっているか

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目的が定まっているか

目的にぴしっと心が定まっていると、人間は安定して能力を最大限に発揮できる。
 
これを身体で実感できる簡単なテストというのを教わったので紹介します。
ある一点に指を差して(ビルの窓のひとつでも、遠くの山でも、壁に掛かる時計でもなんでもいいですが)意識を定めている時、人に少しくらい差している指を押されたりしてもびくともしません。
次は、同じ姿勢・形で同じ対象を指差しながら、差している指の先を意識してみると、同じように押された時に簡単にぐらついてしまいます。
同じことをやっているのに、意識の定め方ひとつで、身体の状態が全然変わってしまうということを、身体を通して実感することのできるものです。
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「指月の譬」

というたとえがあります。
これはブルース・リーの名場面の中でも引用されています。(1″15〜)

元々は仏教の教えから来ている言葉だそうです。
 
月のあるところを教えてやろうとして、指で月を指し示すと、愚かな者はただ指だけを見て、肝心の月には目もくれません。そこで、教える人は言います。「私の指を見ていてはいけない、指は月のあるところを示しているのだから。指の示す方向をたどって空の月をご覧なさい」
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そもそも自分は「月を見ていない」

以前、「物事が成るには何事も順序がある」

“凍った冬の大地には種を撒けない。冬には冬の、春には春の、それぞれの時期には、それぞれ適ったことをやっていく必要がある。”
 
という内容の記事を書いていました。
物事の流れには順序と法則があるので、冬にいきなり「これだけの大きさの実がなっていなければいけない」といったところで、ぽん!と実がなるわけはないということです。
いまやるべきことを知る。そして、いまやるべきことをやる。
それを書いた時点では、そもそも自分は「月を見ていない」ということには、まだ気づいていない状態でした。
タブラを習得するのに、フレーズやらフォームやらまた脱力やらに捉われているだけでは、指先を見て月を見ていないのと同じ。
こんなことは出来て当然でなければならない。。この基準に達していなければ演奏する資格はない。。こんなところでミスをしてはいけない。。
インド音楽というのは古典芸能なので、当然、基準というものが厳然としてあります。
でも、その基準自体が月かというと、それは月を指す指先のことでしかないのです。
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問題は、月を見ていないということなのです。
そのために、月がなんであるかもわかっていない、ということなのです。
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大前提として

まず、

「目的が定まっている」
ということが大前提。
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月が何であるか?
自分の中で定まっていることが必要です。
その上で、指先ではなく、月にしっかり焦点と心を合わせる。
冒頭のテストのように、定まっていなければ、身体がぐらついてしまうのと同じです。それではどこにもたどり着けません。
向こう見ずにがむしゃらは、もちろん絶対ダメ。
そのためにも、まず自分の状態を確認する必要があります。
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頭でわかっただけでは、わかったとはいえない

月が見えた。月がなんであるかわかった。
それだけで出来るようになる、そういう単純で簡単なことではありません。
頭でわかっただけでは、わかったとはいえない。実践して出来るようになって初めて本当にわかったといえるようになる。
頭で理解しただけでは、まだ感覚的には理解・納得できていない。
また、感覚的に「出来る」という状態は、「無意識的に出来る」ようになっている状態です。
ここでのキーワードは「無意識」というところにあると思います。
どういったことを実践していけばいいのか。
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学びながら日々実践

身体にも心にも「力み」を溜め込み、カチコチにフリーズしてしまってからおよそ半年経ちます。
その間の内面的な学びもだいぶ蓄積されてきたように思います。
それらの学びを整理し、また問題の原因や解決策なども、今後の検証材料としていくために、少しずつテーマを持たせながらブログ記事を書いていこうと思っています。
しばらくシリーズで書いていきますので、良かったらお付き合いください。
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次回は、『タブラと姿勢』その実践について書いていきたいと思います。