Monthly Archives: 4月 2017

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『タブラと姿勢』⑦心と身体と無意識と

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前回は、「氣」というものに触れました。

元氣、活氣、やる氣、本氣、病氣、また自然の中にも、春の氣配、雨の氣配、など…
*

とはいえ

「氣」だけでは、、
「元気があればなんでもできる」
という有名なフレーズもありますが、
でも、元気だけでは、やる気だけでは当然できないこともあります。
それに必要な身体的技術が伴わなければ、お話にはなりません。
タブラはもちろん叩けません。
「氣合」だけで自転車に乗れるようになったわけではなく、訓練して無意識的に乗れるようになっています。
身体が無意識的に出来るようになったら、その身体を動かしているものは、もう「氣合」なわけではないですが、「氣が通ってる」から転倒せずに乗っていられます。
そして今度は、どこに行こうと思う心が身体を動かす、というのが順序。
思う前に身体が勝手に自転車をこいでいたらあぶないですね…
*

心身の姿勢

身体の姿勢にたいして、「前向きな姿勢」「後ろ向きな姿勢」というように、心の姿勢と言われるものがあります。
身体の姿勢は、心の姿勢にも影響を及ぼしているので、身体が崩れていると、それは心にも影響を及ぼしています。
だから、「身体を整えることで心を整える」というのもよく聞く言葉です。
*

身体で覚える

一方で、理屈ではなく、「身体で覚える」ということも沢山あります。
音楽も本来そうだと思います。
だから、頭も身体の骨や関節も固まっていない、幼少のうちから訓練するのです。
でも、それを言っても始まらないので、「身体で覚える」ということを、矛盾するようですが、どういうことか考えて理解してやる必要があると思います。
*

無意識に入れる

「身体で覚える」ということは、言いかえれば「無意識に入れる」ということです。
無意識に正しくストンと入れてやる必要があります。
何が正しいかは、結局その目的設定によるので、これがまず重要だということにはシリーズ第①回で触れました。
ストンと入れると言っても、実際には、繰り返しの訓錬と修正、そしてまた訓練という継続した取り組みが必要になるのです。
*
この無意識に入れてやる感覚を掴むための、第③回で触れた、やったことのないことをしてみる、またやったことのないことをしているつもりでやる、ということなのだと思います。
まっすぐ最初から入ってくれれば問題ないわけですが、違う形で誤って覚えてしまうこともあります。
それを入れ直すための工夫なのだと思います。
*

もうひとつ、

無意識には意外と「簡単にものが入ってしまう」ということも知りました。

だからこそ、そのときの心の向け方、使い方が非常に大事になってくるということです。
たとえば、目的意識もないまま、テレビをだらだらと見ていると、必要でないものまで無意識に蓄積されてしまいます。
また、感情に任せて子供を叱ってしまうのも、子供に言われている訳と目的が伝わっていれば別だと思いますが、「なんでできないの」「どうしていつもだめなの」といった類の言葉は、子供の無意識にどんどん「できない」「だめ」が刻まれていってしまうので、非常に危険だと想像出来ますよね。叱る側も、目的が見えなくなって意図とは逆の行動・言葉を無意識的に使っているかもしれません。
少しそれましたが、つまりここでは、目的設定が曖昧だと「無意識には別のものが入ってしまう」ということを言いたいわけです。
*

心をしっかり向ける。

スマホを見ながら歩けば危ないですし、スマホを見ながら食事をすれば味も思い出せませんよね。心はスマホの方を向いている。
やりたくない、嫌だけどやらなければいけないことも沢山あります。
でも、心をそむけたままやっていると身体のパフォーマンスがものすごく落ちる、疲れる、しんどい、そして場合によっては危ない。
心の使い方。
目的と心がしっかり重なってはじめて、身体は本来のパフォーマンスをしてくれる。
ステージでも、目的と心の使い方が一致していないと、余計な緊張にとらわれたりしてしまう。
学ぶときにも、これが一致していないと「身体で覚える」ことはできない。
これが「心の姿勢」
*

このシリーズは、自分が学んだこと、実践していくべきことを整理しながら書いています。

次回は、「学ぶということ」氣・心・身体について、少しまとめていきたいと思います。

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『タブラと姿勢』⑥鍵となるもの

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前回は、自然な姿勢というものについて触れました。

「自然な姿勢には自然な安定がある」
*

ひとつ

今まで、身体的な側面から「姿勢」について触れてきましたが、「学ぶ姿勢」などというように、もちろんそれだけではなく、それより重要なこともあります。
そこに触れていく前に、まずひとつ理解しておく必要があるだろうということについて書いておきたいと思います。
*

となるのは

「氣」
というもの概念です。
元氣、活氣、やる氣、本氣、病氣、氣持ち、氣が合う、氣になる、氣が抜ける、氣をつけるなど、「氣」という言葉は日常的にもよく使っていますし、日本語にはこの言葉を使う表現がたくさんあります。
つまり、日本人はもともと「氣」というものを感覚的に理解している。
これを聞いた時は、とてもしっくりくる感じがありました。
春の氣配、雨の氣配、秋の氣配…
自然の中にも「氣」を感じている証拠ですよね。

自分が何かを目指す、取り組む上で、個人的なものでない、何か日本人としての美学やアイデンティティを求める、大切にしたいと思う心もありました。

それで、よりしっくりきたのだと思います。

*

「氣」

は難しいものでも、怪しいものでもなんでもなくて、生きている限り、本来誰もが持っていて、誰もが出していて、流れているもの。
しかも、「空氣を読む」といった言葉もあるほど、世の中はそもそも「氣」で満ちていて、それが「流れる」か「滞る」かの違いだということです。
東洋医学で「気血」と言われたりしますが、日常的な日本語の中で見つけていくと、より身近で当たり前のものとして感じられます。
なぜ「気」ではなく旧字の「氣」と書いているのかといいますと、「氣」はエネルギーだから、气の中が「〆」はではなく、八方に広がる「米」という文字の方が本来の意味に合致している、ということを聞いたからなのです。
これも、非常にしっくりくるものがありました。
漢字はイメージをダイレクトに伝えてくれます。
*

氣が通る

自然で安定した姿勢のためには、まず、全身、頭のてっぺんから指先、足のつま先まで「氣が通っている」ことが必要。
これは「氣が抜けていない」状態ということとも言えると思います。
例えば、疲れているときにだらっとして「氣が抜けている」と余計に疲れてやる氣が出ません。
当然、タブラについても、脱力して「力が抜けている」ことと「気が抜けている」ことは明らかに違うのは容易にわかります。
聞けば当たり前のことですが、あらためて言われてみなければ、よくよく意識したこともなく、つまり知らなかったことでもあります。
氣が通らず滞れば「病気」になり、氣が絶えれば「氣絶」、止まれば死んでしまう。
*

氣を出す

また、氣は出せるもので、特別何かをしなくても出ているということもわかります。
「元気出していこう」「やる気をだせ」
出る氣が強ければ「強氣」、弱いと「弱氣」、内にこもれば「内氣」…
*

出来る氣

「出来る氣」がしないけど、日々取り組んでいれば近づける。
なにに?
結論から言えば、「出来る氣」がしなければ「出来る」ことはありません。

また、もしかしたら「出来るかも」でも、もしかしたら「出来ないかも」

これもダメでしょう。

*
実際、以前の記事『タブラと姿勢』①目的が定まっているかでご紹介したテストで、
「出来る」「出来ない」「出来ないかも」
と言葉を発してみれば、身体とその能力が、どれだけ言葉と気持ちに無意識的な影響を受けているのかに驚かされます。
*
もちろん「出来る」とさえ言えばなんでも出来るわけはなく、その時点では「出来ない」こともあるでしょう。
ただ、こういうことが言えると思います。
本氣で「出来る」と思っていない人間には、本質的に誰も何も教えることは出来ない
ということです。
*

この続きは、また次回にしていきたいと思います。

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『タブラと姿勢』⑤自然な姿勢と力の抜き方

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姿勢

前回は、「姿勢」というキーワードから、ある衝撃を受けた体験までを書いて来ました。

*
「自然な姿勢には、自然な安定がある」
ここで言われる「自然な姿勢」とは、もっとも力が抜けて楽で安定している状態。
「力み」で苦しんでいる、つまり「適切な脱力」「リラックス」ができないことで悩んでいる身にとっては、なんとも実感の湧かない、でもこれ以上なく魅力的な響きです。
*

手首をもっと柔らかく

タブラを演奏する上で、手首の柔らかさが重要なことはわかっています。
「力が入りすぎ」
「手首が固い」
「もっと力を抜いて」
「もっと楽に」
「もっと軽く」
…etc
手首と指を動かす筋のストレッチ、手根骨の仕組みとストレッチ法、、、
単に、楽に力を抜いて叩こうとすると、力の抜けた軽くか細い音になります。。。
それで、色々教えを請うわけですが、
問題は、
出来る・出来てる人には、出来ない・出来ていない人の感覚はわからない。そして言葉で説明できない。
ということです。
まだまだ本当の自由や、達人の感覚などわかるものではありませんが、日々の実践で少しずつでも「力の抜き方」がわかってくると、それまでなぜ力が入っていたのか、どうやって力を入れていたのかさえも、不思議と思い出せなくなってきます。
なるほど、だから教えるのも、習得するのも難しいということか。。
*

手首の柔らかさについては、肩の柔軟性、動きの質、身体の軸の取り方など、具体的な取り組みも不可欠であり実践中ですが、「姿勢」という幹がなければ、それも単に枝葉になってしまうと感じています。

元から改革。

*

元がしっかり

「元がしっかりしていれば、外からの影響に関わらず安定している」
ボディーが正しくリラックス出来て安定していれば、手をどんなに振られようと、上体を押されようと、まったく動じない。
具体的に正しい姿勢を感覚として掴むための実践法に触れたことついて、前回書きましたが、これを文字情報で伝えることには少し限界があるようです。
とにかく直感したのは、
正しい姿勢、全身の力の抜き方を体得すれば、腕は驚くぐらい柔軟で、自由に動けて、なおかつ強い!
ということは、
力を抜いて、楽に、しなやかで強い音が出せ、演奏できる!!!
ということではないか!
力強く踏ん張って、頑張って「しっかり」させるのではなく、楽チンで力を抜いているのに「しっかり」している。
でも、これは頭だけだとよく理解できません。
力強くあるためには、筋肉を鍛え、力を入れ、頑張るには、歯を食いしばり忍耐を貫く、イメージがどうしても抜けないから。
それはもう潜在意識に深く刻まれています。
*

臍下の一点

「タブラの姿勢」は腰を落として重心を下げて、、とかあれこれやってきたのですが、まず人間本来の身体について
「自然な姿勢には、自然な安定がある」

という原理を知りませんでした。

*

まず、臍の下、下腹のことを丹田といって、「丹田を意識しろ」「丹田に力を込めろ」などと言われたりして重要なものとされていますが、タブラを習得する上では、指や腕、上体ばかりに意識がいっていて、「丹田」を意識したりすることはありませんでした。
さらに、「自然な姿勢」を知るには、
まず「臍下の一点(せいかのいってん)」を知る必要があります。
「丹田」と言われるとき、普通は下腹全体を意味します。
でも、「臍下の一点」というとき、それは下腹のずっと下、ヘソ下からゆっくりと指で押しながら下がっていくと、指の力が入らない、ほとんど恥骨に近いところにあります。
力を抜くとき、この「臍下の一点」がその力の収め先だというのです。
また、足のつま先まで意識が通った状態で、肩、そして全身の力を抜き、「臍下の一点」に全てを落ち着けて立つと
・最も楽で
・最も安定していて
・最も持続可能である
「自然な姿勢」になる。
また、その状態では、人間は心も落ち着いた状態になる。
つまり、落ち着いた状態が本来自然な状態だというのです。
でも、これだけを読んでも全然わかりませんよね?

「力み」でがんじがらめになった僕にもさっぱりでした。。

力の抜き方そのものは、実際に身体で体感してみなくてはわからない。

*

ちょっと実践:肩の上げ下げ

肩の力の抜き方、また個人個人によって違う自然な肩の位置の見つけ方について、学んだ方法をご紹介します。
(自然な肩の位置は、骨格、筋肉のつき方などによって人それぞれ違います。)
「肩を上げて下げてください」
こう言われると、たいがい首をすくめて肩全体を上げてしまいます。
これでは力を入れている状態なので、いくらやってもリラックスできません。
「肩先」ここは鎖骨と肩甲骨につながっていて、喉の下、鎖骨と鎖骨の間で胸骨につながっています。
肩甲骨は肋骨や背骨にはついていない、浮いている骨になります。
肩を上げるときは、この鎖骨と胸骨の繋がる場所、ここを中心に「肩先」を上げる。
そのとき、腕の力は抜いていてください。
そうすると、円軌道を描くように「肩先」が動き、引っ張られるようにして肘が自然と上がります。
肩を上げる位置を前後したりしてみて、一番楽で、一番肩の上がる場所、そこがご自身の自然な肩の位置です。
また、上下していれば、肩の力が抜け、リラックスできます。
僕の場合は、これを知っただけでも、大きな効果がありました。
*

自然な

よく「自然体で」などと言われますが、なにが自然体なのかはよくわかりません。
本来は、なにもしなければこの状態、首が座るようになった赤ん坊は自然とこの状態なのでしょう。

でも、「自然体」でなない場合には、いつでもその状態でいられるための訓練が必要です。

そうです。それは訓練できるのです。

*

シリーズのメインテーマは引き続き『タブラと姿勢』です。

次回は、訓練の鍵となるものについて書いていきたいと思います。


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『タブラと姿勢』④まさに蜘蛛の糸

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自分のことは自分が一番わからない

「我々の直面する重要な問題は、それを作った時と同じ思考のレベルでは解決できない」

同じ思考、同じ行動、同じ努力をしていては超えられない。
*
前回までの記事:『タブラと姿勢』
*
こうして書いていると、書いている本人の思考や反応の癖も、少しずつ外側からみえてきます。
自分のことは自分が一番わからない。
*

あるキーワード

「力み」により、自由な動きを獲得できないことに悩み、 暗く冷たく重い出口のみえないトンネルの中でもがいていた中で、あるキーワードが引っかかってきました。

「姿勢」

本連載のタイトルにもなっているものです。
*
「自然な姿勢には、自然な安定がある」
というのが、その教えでした。
身体が完全に自然な姿勢で整っていること、それは
・最も楽で
・最も安定していて
・最も持続可能である
それにより、いつでもすぐに動ける最も自由な姿勢、だということなのです。
「元がしっかりしていれば、外からの影響を受けず安定している」
理屈はわかります。筋が通っています。
なにより重要なポイントとして、それは「誰でも出来る」普遍性のあるものだというのです!
*
「力み」は抜こうとすればするほど固く締まり、、もがけばもがくほど穴に落ちていくアリ地獄のようなもの。。
いうなれば、そこに垂らされた一本の蜘蛛の糸!
もうしがみつくしかありません!!!
*

ものごとは実践

でも、それを知識として知っているだけでは、何にもなりません。
そして、その指導をしている道場で、見た光景が衝撃でした。
*
「元がしっかりしていれば、外からの影響を受けず安定している」
だから、
身体の本体が安定していれば、腕を人にどんなに振られても、影響を受けない。
自然な姿勢が出来ていると、その手を持って、どんなに人が「ぶるぶるぶるぶる」やろうともまったく影響されないのです。

そればかりか腕を振る人が、虚しくなるほど抵抗のないものを振っている感じです。

*
そのとき思い浮かんだのは、まさにオニンド・チャッタルジー先生の手でした。

まるでどこにも抵抗のない、しなやかでスムースで、ぐにゃぐにゃとは違うふにゃふにゃしたやわらかい手です。
*

「なんだ!なんなんだ!これは!」

内心、興奮が抑えられませんでした。
*

次回、その「姿勢」についてもう少し掘り下げていきます。


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『タブラと姿勢』③深い闇とアインシュタインの言葉

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ヒントを探して

やっかいな癖について前回の記事で触れました。
記事:②習慣と癖
こいつの居場所がわからない。
こいつの現れてくる仕組みも対処法もなにもわからない。
もうこれは、生まれ持った自分の性格や性質かと諦める以外にないのではないかと思いながら、悩み、苦しみ、解決法やヒントを探していました。
*

想像以上に深い闇

知らないこと、出来ないことに取り組もうとしたときに、「力み」というのは致命的な問題なのだけれど、癖になってしまっているものはそうそう簡単には抜けてくれるものではない。
それどころか、力み切ってしまっている状態では、まず自分がどれだけ力んでいるかということもわからない。
どれだけ深い闇に隠された問題なのかさえも。。
「なんでそこでミスするんだ?そこでは絶対にミスしてはいけない!」
…絶対にミスしてはいけない!絶対にミスをしてはいけない!絶対にだ!!!
強く思うほど、練習すればするほど、やっぱりミスる。。
まるで負の無限ループの闇の中にいるように自分を追い詰め、心にさらなる「力み」を溜め込んでいきます。
わかっていることといえば、誰にもどうにもできないということだけ。
「どうにかしなければ、どうにか…。」
*

壁にぶつかっているとき

壁にぶつかっているときというのは、だいたい正面の小さい視野でしかものが見えていない。
壁に当たって怪我をしたのに、その壁を突破しようとしてさらに突撃して全身ボロボロになり体力を失うようなもの。
子供のときから地元の川に親しんでいたというキャンプ場のオーナーが以前言っていたことですが、「とても悲しいことに毎年川で亡くなる人がいる。川で溺れて亡くなる方は、だいたい川に落ちたときにもがいて体力を消耗してしまう。でも人間はもともと水に浮くのだから何もしなければどこかに流れ着く」のだそうです。
ダメな時に、ただただもがいて練習してしまう。これでは溺れてしまう。。
*

アインシュタインの言葉に

「我々の直面する重要な問題は、それを作った時と同じ思考のレベルでは解決できない」
というものがあります。
同じ思考、同じ行動、同じ努力をしていてはいけない。
ことあるごとにこの言葉が思い浮かびはするのですが、実際に行うのはものすごく難しいです。
何か違うこと、今までやったことのないことに取り組む必要があるのでは…。
*

やったことのないこと

以前、パーカッショニストの山北健一さんと「山北塾」を開催させていただいていた時に、リズム感についてや上手くなるための秘訣など、いろいろと伺ったり教わったりしていましたが、
「赤ちゃんが初めて楽器に触れるようにやったらいいよ。今までやったことのない例えばテニスでも始めてみる感じで。。」
なんとなく言ってることはわかるような、、でも「わかった」かどうかというと、正直そのときはチンプンカンプンでした。
そんなとき…
「ん!なんだ?それ?!」
*

ごめんなさい。。
ちょっと長くなるので、ひっぱるようで申しわけありませんが、引き続き「光明」へ向かって次回へと続きます。

よろしくお願いいたします。


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『タブラと姿勢』②習慣と癖

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月のあるところ

月を指す指先ばかりを見て、月のあるところを見ていなかった。
月のあるところを見なければいけないことがわかった。
でも頭でわかっただけでは、まだそれはわかったとはいえない。
実践して出来るようになって初めて本当にわかったといえるようになる。
というのが前回の記事ですが、もちろん今現在も分かっていないことだらけなので、月のあるところを目指すのに、誤りがあれば軌道修正を出来るように、整理しアウトプットしつつ日々実践していきたいと思います。
*

習慣を変える

何事も3週間続ければ習慣となり、3ヶ月続ければ身についてくるといわれます。
「始めたら最低でも3週間は毎日継続することが大事」
「継続のコツは小さなことから始めること」
だそうです。
*

実験

そこで、僕も実験として、起床時間を変えてみるということをしてみました。
それまで夜型だったのを、朝早く起きることにしたのです。
でも、かなり万年睡眠不足になっていたので、早く起きてしまっては余計に睡眠時間が少なくなるのではないか、と最初は心配していました。
ちなみに、あのザキール・フセインは、本格的に学び始めた(正確な意味は割愛します)7歳の時から朝3時起きでタブラを学んでいたそうですが、それが普通の生活で当たり前の習慣だったといいます。
爪の垢を煎じて飲むつもりで始めてみましたが、6ヶ月も続けていると、仮に前の日が遅くても勝手に目が覚めてしまうようになりました。
「早起きは三文の得」と言われるように、いわゆる朝活の効果は色々なところで語られていますが、僕の個人的な効果についてはまた後々のテーマで触れていきます。
睡眠の大切さも本当の意味でわかりました。こちらも機会があればまた触れていきます。
*

やっかいな癖

3週間が習慣を変えるポイントだとしたら、3ヶ月というのが癖をなおす上でのひとつの目安ではないかと思います。
*
さて、ここからが本題なのですが、やっかいな癖、上達の邪魔をしている最大のもの、僕の場合それは「力み」でした。
癖というのは、だいたい本人も気づいていない・気づけないほど深く染み付いたものです。
仮に、それが悪い癖だと気づけたとしても、どう抜け出したらいいのかなんてわかならい。
*
「力み」
それがどれだけ根深く、手強く、やっかいな代物であるか。
それは癖のいる場所が「無意識」の領域だから。
意識して手の届くところにいないから当然わからないのです。
*

絶対にミスしてはいけない!

でも、この「力み」は一つ一つ丁寧に取り除いていかなければ、全くどこへも動けないほどカチコチに凝り固まっていました。

*
演奏中にも力みがあると、音も当然良くない上にミスをします。
「なんでそこでミスするんだ?そこでは絶対にミスしてはいけない!」
…絶対にミスしてはいけない!絶対にミスをしてはいけない!絶対にだ!!!
強く思うほど、確実なまでにミスります。。
それを練習すればするほど、やっぱりミスる。。
*
ひどく落ち込み、傷つき、さらに出来ない自分を責めて傷つけます。
この負の連鎖は無限ループのように自分を追い詰め、さらなる「力み」を溜め込んでいきます。
負の無限ループのなかは、まるで、真っ暗で冷たく重いもので満たされ、息も苦しくなる出口のないトンネルの中にいるような感じです。
「このままではいけない」という焦りばかりが募り、さらに追い込み、そこから抜け出す方法も発想もエネルギーまでもどんどん奪われてしまいます。
気づけば、芸術の素となる感受性までも固くなり灰色になってしまったかのようです。
*

なぜ「力む」のか?

この問題に悩み、苦しみ、いろいろと解決策やヒントを求めて、身体の仕組みやら使い方のあれやこれやを色々探し回りました。
もうこれは、生まれ持った自分の性格や性質で諦める以外にないのではないかと薄々感じながら…
アレクサンダーテクニーク、古武術、脱力法、ストレッチ法、呼吸法…etc
世の中には沢山の知恵やヒントがありました。

藁にもすがる思いで、色々試しました。

が、イマイチ決定打を得られた直感がありません。

ですが、そうこうしているうちに、ひとつ「大事なこと」を知ることが出来たのです。

もちろん知っただけでは「わかった」出来たとは言えない、のですが、、
ですが、ですが!少なくとも
それを除くことは可能だ!
まるで光明が差したようでした。
*
次回は、その「大事なこと」、そしてこの「力み」をテーマに続けていきたいと思います。

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『タブラと姿勢』①目的が定まっているか

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目的が定まっているか

目的にぴしっと心が定まっていると、人間は安定して能力を最大限に発揮できる。
 
これを身体で実感できる簡単なテストというのを教わったので紹介します。
ある一点に指を差して(ビルの窓のひとつでも、遠くの山でも、壁に掛かる時計でもなんでもいいですが)意識を定めている時、人に少しくらい差している指を押されたりしてもびくともしません。
次は、同じ姿勢・形で同じ対象を指差しながら、差している指の先を意識してみると、同じように押された時に簡単にぐらついてしまいます。
同じことをやっているのに、意識の定め方ひとつで、身体の状態が全然変わってしまうということを、身体を通して実感することのできるものです。
*

「指月の譬」

というたとえがあります。
これはブルース・リーの名場面の中でも引用されています。(1″15〜)

元々は仏教の教えから来ている言葉だそうです。
 
月のあるところを教えてやろうとして、指で月を指し示すと、愚かな者はただ指だけを見て、肝心の月には目もくれません。そこで、教える人は言います。「私の指を見ていてはいけない、指は月のあるところを示しているのだから。指の示す方向をたどって空の月をご覧なさい」
*

そもそも自分は「月を見ていない」

以前、「物事が成るには何事も順序がある」

“凍った冬の大地には種を撒けない。冬には冬の、春には春の、それぞれの時期には、それぞれ適ったことをやっていく必要がある。”
 
という内容の記事を書いていました。
物事の流れには順序と法則があるので、冬にいきなり「これだけの大きさの実がなっていなければいけない」といったところで、ぽん!と実がなるわけはないということです。
いまやるべきことを知る。そして、いまやるべきことをやる。
それを書いた時点では、そもそも自分は「月を見ていない」ということには、まだ気づいていない状態でした。
タブラを習得するのに、フレーズやらフォームやらまた脱力やらに捉われているだけでは、指先を見て月を見ていないのと同じ。
こんなことは出来て当然でなければならない。。この基準に達していなければ演奏する資格はない。。こんなところでミスをしてはいけない。。
インド音楽というのは古典芸能なので、当然、基準というものが厳然としてあります。
でも、その基準自体が月かというと、それは月を指す指先のことでしかないのです。
*
問題は、月を見ていないということなのです。
そのために、月がなんであるかもわかっていない、ということなのです。
*

大前提として

まず、

「目的が定まっている」
ということが大前提。
*
月が何であるか?
自分の中で定まっていることが必要です。
その上で、指先ではなく、月にしっかり焦点と心を合わせる。
冒頭のテストのように、定まっていなければ、身体がぐらついてしまうのと同じです。それではどこにもたどり着けません。
向こう見ずにがむしゃらは、もちろん絶対ダメ。
そのためにも、まず自分の状態を確認する必要があります。
*

頭でわかっただけでは、わかったとはいえない

月が見えた。月がなんであるかわかった。
それだけで出来るようになる、そういう単純で簡単なことではありません。
頭でわかっただけでは、わかったとはいえない。実践して出来るようになって初めて本当にわかったといえるようになる。
頭で理解しただけでは、まだ感覚的には理解・納得できていない。
また、感覚的に「出来る」という状態は、「無意識的に出来る」ようになっている状態です。
ここでのキーワードは「無意識」というところにあると思います。
どういったことを実践していけばいいのか。
*

学びながら日々実践

身体にも心にも「力み」を溜め込み、カチコチにフリーズしてしまってからおよそ半年経ちます。
その間の内面的な学びもだいぶ蓄積されてきたように思います。
それらの学びを整理し、また問題の原因や解決策なども、今後の検証材料としていくために、少しずつテーマを持たせながらブログ記事を書いていこうと思っています。
しばらくシリーズで書いていきますので、良かったらお付き合いください。
*

次回は、『タブラと姿勢』その実践について書いていきたいと思います。


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【インド古典舞踊ソロアクト! 2017】Indian Classical Dance “Solo Act” 2017

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【インド古典舞踊ソロアクト! -オープンスタイル- 2017】
Indian Classical Dance “Solo Act” 2017
春の南青山で、様々なインド古典舞踊のソロ作品をご覧頂く舞踊祭

☆両日共にご予約予定枚数を完売いたしました。

ありがとうございます!!
尚、当日券を若干枚ご用意させて頂くと思いますので、
詳細は当日午後に会場宛てお電話でお問い合わせください。

日時:2017年4月10日(月)・11日(火) 18:00開場/19:00開演

場所:南青山MANDALA Tel:03-5474-0411
  〒107-0062 港区南青山3-2-2 MRビル1F
交通:銀座線「外苑前」駅1A出口より徒歩5分、外苑西通り沿い右手。
料金:一公演 2,500円+1drink別オーダー
☆Kadamb Japan…  http://www.atsukathak.com
☆Mandala Minamiaoyama…  http://www.mandala.gr.jp/aoyama/

出演:

入野智江ターラ(Kutiyattam) 巽 幸恵 小田切淳子 宮本 博(Bharatanatyam)
村上幸子 桐山日登美(Odissi)佐藤麻衣子(Mohiniyattam)黛 朋子(Kuchipudi)
浮花(Kathak)/ 指原一登(Tabla)&平川 麦(Sarod) ※順不同

主催・問:

カダムジャパン 080-1330-5859 kadamb@hotmail.co.jp

http://www.atsukathak.com  ・ マンダラ南青山 03-5474-0411

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